「有平糖から始める」 第20回深大寺恋物語 応募作品

短編小説

年に何回か、深大寺へ足を運ぶ。死んだ祖母に連れられて、何度もきた場所だ。

僕が9歳の頃だった。

父さんが家を出て行った。

その翌年、母さんが死んだ。

住んでいたアパートから、調布の祖母の家に引っ越した。

祖母には歯がなくて、引っ越した日の夜に笑った祖母の口の中が真っ黒かったことが忘れられない。

僕は毎日が怖かった。祖母もいなくなってしまうのではないかと思ったら、怖くて怖くてたまらなかった。

僕の予感が当たってしまったようで、十三歳の時に祖母が死んだ。親戚の人たちが、祖母の葬儀で僕のことを話していた。

みんながこちらをちらちらと見ながら、

「うーん、うちはねぇ。娘だから」

「僕が引き取るのは違う気がするな」

そんな会話が聞こえてきた。

僕は、児童養護施設で暮らすことになった。

高校を卒業してから、僕はスーパーに就職した。生鮮部、鮮魚部を経て、今は管理部にいる。管理部といっても、パートさんのシフトを考えたり、本部からくる連絡の対応をしたり、売り込みにくるメーカーの営業の話を聞いたりするだけで決して偉くなったわけではなかった。

もうすぐ三十歳。あと何年か経てば、店長になれるだろう。

僕が深大寺に来るのは、たいてい平日の午後だ。人ごみは苦手だし、土日は仕事のことが多い。今は、中野に住んでいるから、中央線で三鷹へ出て、小田急線で深大寺行きの「鷹65」に乗って行く。

深大寺では、お決まりのコースがある。

まずは、参拝。祖母はいつも五円玉を賽銭箱に入れる前に、洋服の裾でこすっていた。だから、僕もそうしている。

祖母がしていたように、手をすりすりとこすり合わせて目をつぶり、ごにょごにょとつぶやく。

祖母はいつも「ありがとうございます」と言っていた。

だから僕も、「ありがとうございます」とつぶやく。

それから、みたらし団子を買い、座って食べる。タイミングが良ければ、ゴワァーンという鐘の音が聴ける。身体が震えるようなその音は、目の前に祖母が現れてくれるんじゃないかというくらいに、その場の空気が揺れ、異世界とつながっているのではないかというくらい不思議な空気が流れる。

そして、最後に有平糖を買って帰る。黒ごま、黒大豆、落花生と三種類あるが、祖母は決まって黒ごまの有平糖を選んでいた。家に帰ると、祖母は有平糖を仏壇に供えてからお茶を入れる。有平糖は噛んで食べる飴で、中に黒ごまあんが入っていてそれを飴でコーティングしてあって、がりがりと食べるのが美味しいと思う。それなのに、祖母は、舌で転がしてゆっくりゆっくりと食べるのだった。入れ歯に挟まるのを気にしていたのかもしれなかった。

祖母はいつも言っていた。

「あんたの父さんは、よその女のところへ行ったんだ。惚れたはれたで家庭を捨てるような大馬鹿だ。その女がみんなの人生を狂わせたんだ」と。

だから僕は、恋なんてしてはいけないのだとずっと思っていた。施設にも、高校にも、可愛いなと思う女子はいたけれど、好きになってはいけないとわかっていた。母さんを傷つけた父さんは、この世で一番悪い男なのだと、祖母の言葉を信じ続けていた。

有平糖を、三種類買って帰り、翌日、スーパーの事務所兼休憩室へ置いておいた。

売り場の確認をしてから事務所へ戻ると、昼休みを取っていた、レジ係の平田さんが嬉しそうに話しかけてきた。

「これ、とっても美味しいです。深大寺って、どこにあるんですか?」

「調布市です。三鷹や吉祥寺からバスで行けますよ」

「私、三種類頂いちゃいました。美味しくて止まらなくて」

そう言われて、僕は嬉しかった。

「そうですか。僕の一押しは黒大豆です。きな粉がとっても濃くてしっかりした味が、飴と合うんです」

「わかります。甘すぎないのが良いですよね。でも、私のナンバーワンは黒ごまかな。しっかりとごまの風味が感じられてはまっちゃいました。今度行ってみますね。調べたら、厄除けにも効果がある場所だって書いてありました」

「厄除けしたいんですか」

「うふふ。私、男運が悪くって。バツイチでも恋愛できるんだって思った矢先、またふられちゃいました」

「そうですか」

「社員さん、恋人いるんですか?」

僕はいつも「社員さん」と呼ばれていた。

「僕は、そういうのはいいんです」

「えぇ、もったいない。何かトラウマでもあるんですか?」

「いや、そういうわけではないけど、女性を幸せにできる自信がないというか、傷つけてしまいそうで、恋愛には奥手で」

平田さんは、目を丸くして、こう言った。

「傷つけるのが怖いと思っているうちは、恋愛とは言わないと思いますよ。相手のことが、好きで好きでたまらなくて、何も見えなくなって、全てを失ってもいいと思えるのが恋愛だって思うんです」

それから、十六時に平田さんが帰り、閉店作業をするまで、僕の頭の中は平田さんの言葉がぐるぐると回っていた。

母さんと僕を捨ててまで、女の人のところへ行った父さんは、真の恋愛をしていたということになるのか、と。

不倫だとか、浮気だとか、そういうものは、最低な人間のすることだと信じ込んでいた。僕にも父さんと同じ血が流れているのかと思うと、自分自身を汚らわしいもののように思えていた。

有平糖を頬張る平田さんの目尻の皺を思い出して、少し胸が熱くなった。平田さんは、小学生の娘さんとご両親と一緒に暮らしていると面談の時に話していた。

アルバムから、祖母と一緒に写っている写真を取り出し、眺めてみた。皺くちゃになった手で僕の肩をしっかりと抱いている祖母は、僕を守ろうとしているように見えた。

祖父もまた、恋多き男だったと聞いていたから、母方の女性たちは男に振り回される運命だったのかもしれない。けれども僕は男だ。祖母や母さんを守りたいという気持ちはいつも胸の中にしっかりとあった。

そういう気持ちで女性に接しているからか、僕は女性にウケが良かった。恋愛はしたことがないけれど、いつも周りの女性が親切にしてくれた。

僕はもう、恋をしても良いのかもしれない。

こうして大人になっても深大寺にお参りしているからか、祖母が有平糖を通して、僕に教えてくれたのかもしれないと思った。

明日、出勤したら、平田さんに声をかけてみようと思った。平田さんのことを好きになるかもしれないし、別の人を好きになるかもしれないけれど、僕は、僕の恋物語を創っていって良いんだと思えた。

仕事帰りにポケットに一つ忍ばせた有平糖は、黒大豆だと思ったら黒ごまだった。

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