「守られし人」 第18回深大寺恋物語 応募作品

短編小説

 郵便受けから一枚のはがきを取り出し、私は思わずその場にへなへなと座り込んでしまった。これから先、二年間の安定した生活が保証されるという通知だからだ。

 合格通知書

あなたは、本校の介護福祉科に合格したことを通知します。

入学説明会を下記の日程で行いますのでご参加ください。

自立支援教育給付金については、別紙をご参照ください。

 三年前のこと。

「お前のことが好きだったわけじゃない。ただ、お前の方が馬鹿だから楽だと思って結婚したのだ。」ナイフのように鋭い言葉で私を傷つけたのは、五つ年上の夫だった。夫との出会いは、アルバイト先のガソリンスタンドだった。高校を中退して、近所のガソリンスタンドで働いていた。当時アルバイトリーダーだった夫は、腰のあたりに入れ墨があり、強面ではあったが、話してみると優しい男だった。交際を始めてすぐに、私は妊娠した。私には迷いがなかったけれど、夫は少し迷惑そうに私の報告を聞いていたことを今でも思い出す。結婚式も記念写真も無い区役所へ届け出ただけの結婚だった。あの時、選択を間違えなければといまだに思うことがある。妊娠三十七週になる頃、夫は家に帰らなくなった。私と交際を始める前から、他の女性と付き合っていたというのだ。そのことを咎めたら、夫は私に容赦なく手を挙げた。夜、息苦しくて目を覚ますと、夫が私に覆いかぶさり首を絞めていたことがあった。

「た、たすけて。」

 藁にも縋る思いで、自分と我が子の命を守ることに必死だった。悪魔と契約してでも、子どもを守りたいとさえ思った。

 繰り返される暴力は、子どもが産れてからも収まるどころかエスカレートしていき、私はとうとう女性支援センターに駆けこんだ。担当者の年配の女性は優しく、擦り切れた心にそっとガーゼを当てがってもらえたような気持ちになった。少しでも夫から離れた方が良いとのことで、縁もゆかりもないこの土地に、息子と二人で流れ着いたのだった。

 アパートの集合郵便受けの前に座り込む私に、砂利がこすり合う足音が近づいて来るのが聞こえて我に返った。

 「大丈夫ですか?」

 「あ、はい。大丈夫です。あまりに嬉しくて立てなくなってしまいました。」

私が正直にそう話すと、目の前の男性はふふっと小さく笑って手を差し伸べた。身長180センチはあろうかという大男で、まだ三月だというのに半袖のポロシャツから伸びた腕には青い血管が浮き出ていた。

 「本当に大丈夫ですから。」

 私は両手で地面を押して立ち上がった。

男の人は怖い。どんなに優しそうな顔をしていても、力では敵わないのだから、うかつに近寄るのはよそうと決めている。失礼な態度をとってしまったかと後悔したが、大男は気にするそぶりもなく、自分の郵便受けが空であることを確認してアパートの階段を上がっていった。どうやら二〇一号室の住人らしい。

 しばらくして、私は専門学生となった。介護福祉士の国家資格を取得するためのコースで二年間勉強し、卒業後は施設で介護職員として就職することになる。学校に通っている間は給付金が支給されるので、働くことなく学業に専念できる。子どもを保育園に預けながら勉強をするのは大変かと思われたが、始まってみると生き生きと毎日を過ごせている自分に驚いた。クラスメイトはほとんどが十代だったが、私のように職業訓練として通学している者もいた。掃除当番や球技大会など、青春時代を取り戻したような気がした。

 いつものように、一旦帰宅してから宿題を終えて子どもを保育園に迎えに行った。お昼寝の時間にうまく眠れなかったと先生から報告を受けたが、それなら今夜は早く寝てくれるはずだと心が弾んだ。二歳の息子を抱きかかえながら、アパートの階段をやっとの思い出あがりきったところで、息子が急に暴れ出し、腕の中から落としそうになった。

 「きゃー、いやだー」

 奇声を上げながら体をねじる息子は、悪霊にでも取り憑かれたかのように手足をバタバタと振り回した。

 「こあい、こあい」

と繰り返す息子を落とさないように、やっとの思いで玄関の鍵を開けて部屋に入ると、息子の癇癪はすぐに収まった。

 翌朝、いつものように玄関を出ると息子がまた「こあい。いや」と言った。指を指す方向を見ると、二〇一号室の玄関チャイムの下に何やら白い紙が貼ってあった。黒い筆のようなもので絵が描かれている。長く細い角を生やした鬼のような妖精のような生き物が座っている見るものをじっと見つめている絵だった。吸い込まれるような怖さがあった。

 二歳の子どもには不気味にうつってもおかしくはない。私は、息子の目を覆いながら抱きかかえて二〇一号室の前を小走りで通過した。前日までは無かったはずだ。

 それから、二〇一号室の前を通る度に息子が泣くので、ある日私は大きな声で叱ってしまった。デイサービスでの実習があり、心身ともに疲労していたこともあってイライラしていたのだ。

 「こんなのただの絵でしょう。怖くない。もう泣かないでよ」

その時、ガチャリと音がして二〇一号室の玄関ドアが開いた。私は少し気まずい思いで足早に歩いていると「あの」と声をかけられた。

 「これですよね。お子さんの泣いている原因」

 「いえ、気にしないでください。大丈夫ですから」

 「ごめんなさい。これからは家の中に貼りますので」

 「すみません。ご迷惑をおかけして」

 「いえ、こちらこそすみません」

二人で謝り合って、おかしくて同時に笑い出した。

 「あの、それは何かの意味があるのですか?」

私が大男に尋ねると、

 「これは、厄除けのお札なのです。降魔札というのです。深大寺に行ったので買ってきました。深大寺は行かれたことがありますか?」

 私は、返事に迷ったが詳しく話さなければ大丈夫だろうと思った。

 「私、この辺りに詳しくなくてよくわからないのです」

 「そうですか。厄除けと言ったら深大寺というくらい有名ですから、是非行ってみてください。池に鯉がいたり、水車が回っていたりするのでお子さんも楽しめると思いますよ」 そう言って、大男はどこかへ出かけて行った。こんな時間から出かけるなんてどこに行くのだろうと思ったが、独身の男性が出かけるには遅いというほどの時間ではないことに一人苦笑した。子どもが産れてから、夕方以降に家を出ることなどなかったのだ。

 週末、突き抜けるような青空が広がり息子と公園へ出かけた。夫との生活は地獄のようだったが、この子を授かれたことは幸せであるに違いなかった。

 「ママ、あいどうじょ」と砂場で丸めた泥団子は手の中でパラパラと崩れて落ちて行った。

 どこかのパパが、「ママはお買い物だから、もう少し待とうね」とよちよち歩きの女の子に話しかけている。あそこの家庭では、パパが子守をしてくれるのかと思ったら、胃をぎゅっと掴まれるような感覚が走った。我が子の背中を見つめながら、パパのいない人生を歩ませてしまっている自分を責めた。けれども、母親が父親に傷つけられる姿を見せるわけにはいかなかった。息子には優しい青年に育ってほしいと願っている。そう、思いながら大男の顔を思い浮かべた自分がいた。

 再婚したいだろうか?息子に新しいパパ?いやいや、そんなものはいらない。介護福祉士の資格が取れれば、正社員として働ける。社会保険にも入れるし、私だけで息子一人くらいは育てあげられるはずだ。それに、見せかけだけの優しさかもしれない。もう男のことなど当てにしないし、頼らないで生きていくと決めたのだった。

 八月に入り、専門学校は夏休みになった。宿題は山のように出ているが、学校へ行かなくても給付金がもらえるのだから、母子家庭に優しい制度に感謝の気持ちが溢れてくる。医学一般と介護概論の教科書を並べてどちらから取り掛かろうかと考えていたら、玄関のチャイムが鳴った。

 足音を立てぬように玄関に近づき覗き穴に目を近づけると、大男だった。息子は保育園に預けているから部屋には私一人だ。万が一のことがあってはならないと、チェーンをつけたまま玄関を開けた。

 「はい」

 「あの、友人にもらったのですが手伝ってもらえませんか、スイカ」

 「スイカ?」

 見ると、大男の手には大きなスイカがぶら下がっていた。

 「できれば半分くらい食べてもらえるとありがたいのですが。僕が切ってこようかと思ったのですが、何か毒でも盛ったと思われたら困るのでそのまま持ってきました。ここに置いておくので、好きなだけ切って残りは僕の部屋の前に置いておいてください」

 「あぁ、はい」

 私が曖昧な返事をし終わらぬうちに大男はニッコリ笑って玄関のドアを閉めた。コトンとスイカを置く音がして、遠ざかる足音が消えたかと思うと遠くで玄関のドアが閉まる音がした。

 スイカ、食べたい。私は、大きく丸々としたスイカをおそるおそる抱え上げた。

 言われた通り、半分に切って、ラップをかけて二〇一号室の前にそっと置いた。直に置くのは気が引けて、紙皿を敷いた上に載せて、「ごちそうさまでした」とメモをつけた。苗字くらいは書いた方が良いかと思ったが、知られぬ方が身のためだと思いやめておいた。

 保育園から帰った息子は、大きなスイカに目を丸くして喜んだ。二人でスプーンを使ってくり抜きながら食べるスイカは贅沢な味がした。

 優しくされると好きになってしまうけれど、困るよな。私だって大男だって、息子だって、今さら恋愛なんかしたら困るよな。片思いをしている中学生のようなドキドキを感じながら、息子の寝息に自分の呼吸を重ねて静かに目を閉じた。

 大男とは、挨拶や世間話を交わす程度の関係のまま私は専門学校の全過程を修了した。介護福祉士の試験は、クラスの全員が無事合格したのだった。

 私は、寮のある大型有料老人ホームへの就職が決まった。独身寮であったが、母子家庭であることから特別に息子と住むことを許された。

 一部屋挟んだ二〇一号室の大男へ淡い恋心を抱いたままこの恋を始めてはならぬと自分を制しながら暮らした二年間はあっという間だった。少ない荷物を詰め込む段ボールを近所のスーパーからもらって歩いていると、後ろから声をかけられた。

 「手伝いましょうか?」

 「いえ、大丈夫です」

 「遠慮しないでください。僕、見た目の通り力持ちなので」

 「すみません。助かります。今度引っ越すことになりました。今までお世話になりました」

私がそう話すと、「そうですか」とずいぶんあっさりした返事が返ってきた。

 「お母さんおひとりで、子育てをするのは大変でしょうね」

 「え、私がシングルだとお気づきでしたか?」

 「はい、二〇三号室ってそういう施設で紹介される部屋みたいで、以前もシングルマザーの方が娘さんと住んでいましたよ」

 私は驚いた。私がシングルマザーだと知って親切にしてくれていたのだろうか。私は思い切って尋ねてみた。

 「ご結婚は?」

 「してないですね。一人です」

 「そうですか」

 尋ねるまでもなく、アパートは単身者向けである。我ながらばかばかしい質問だと思った。

 「僕はね、対象が男なのです。」

 「対象?」

 「はい、恋愛対象が男なのでね。だから、女性に危害は加えませんから安心ですよ」

 私は思わず両手に抱えた段ボールを落としてしまった。

 「僕、それも持ちますよ」

 重くて落としたわけではない。衝撃が強すぎたのだ。

  「ほら、いつか深大寺のお札でお子さんを泣かせてしまったでしょう?あの時は付き合い始めた恋人に騙されていたと気づいた直後で、厄除けしたかったのです」

 「騙されていた?」

 「はい、恋人に二股かけられた上に、お金を貸したまま逃げられてしまって」

「まあ、私と同じ」

 「そうだったのですか。それなら、深大寺のお札で厄除けしなきゃ」

大男が急に女の子のような話し方になったので、思わず吹き出してしまった。

「良かった。笑ってくれて。いつも悲しそうな顔をしていたから心配していたのですよ」

「そうだったのですか」

「僕がゲイだって始めに言っておけば良かったですね。そうしたら、あなたも安心して僕に頼ってくれたのに、引っ越すなんてね」

 「ありがとうございます」

その言葉の優しさに、私の目には涙が溢れてきた。

引っ越しの荷物をまとめ終わると、週末私は息子を連れて深大寺へと訪れた。

 三鷹駅までバスで15分。それから別のバスに乗り換える。案内表示を見ながら「深大寺行き」の表示を見つけてホッとした。

 「バス、楽しいねぇ。」

とはしゃぐ息子の手は、ずいぶん大きくなっていた。

バス停を降りると、急に空気が変わったのがわかった。すぐ近くを車が走っているというのに、一歩踏み入れた途端、柔らかい風が私を包んだ。初めての場所なのに懐かしい、それでいて新客を歓迎しているようなそんな雰囲気。

 水のせせらぎを聴きながら虎と龍の石像に驚く息子を写真に収めた。案内図を眺めてずいぶん広そうだと感動した。都会にこんな厳粛な場所があるとは知らなかったし、知ろうとする余裕もなかったのだ。

参拝のルールがわからないので、前を歩く年配の男女の真似をした。

「どうか、この子と私をお守りください」

手を合わせながら強く念じた。

「それから、もし可能であればまた恋ができますように」

と、こちらは控えめに念じた。息子は、保育園の給食前の挨拶のようにぱちんと音を立てて両手を合わせていた。

授与所で

「お札をください」

と言うと、初心者だとわかったようで貼り方を教えてくれた。

二枚一組で、玄関の外側に角大師の降魔札、玄関の内側に豆大師の利生札を貼るのだと。それを聞いて、大男を思い出した。

せっかく玄関チャイムの下に貼った角大師を家の中へ移動させてしまって、厄除けはできただろうか、と。 

私は、片方の手で買ったばかりのお札を大切に握りしめ、もう片方は息子の手を引いて参道を歩いた。

そしてくるりと振り返り、「大男さんが幸せになれますように」と念じた。

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