「今日も死ねなかった。」
これでもう5日目だ。私は、家の近くに流れる川の土手に座って、風に揺られるオレンジ色の花たちを眺めていた。
死にたい理由なんて一つではない。例えば、高校受験に失敗して滑り止めの女子高に馴染めずに一人ぼっちでいること?父がよその女性と恋愛をしていることが原因で、母が壊れたミキサーに八つ当たりしていること?いじめに遭ってひきこもり中の兄が、深夜よその家の風呂場を盗撮して書類送検されたこと?顔の吹き出物が、どんな洗顔クリームを使っても治らず、月面のように凹凸があって肩まで伸ばした髪が時々吹き出物と衝突して血が出ること?私の場合はそれら全てが死にたい原因だ。
世の中には、お腹が空いていても満足に食事を摂れない人々がいるという。暮らす家が無く、路上で眠る子どもが犯罪に巻き込まれているという。生きたくても生きられず、病に苦しんで亡くなる人がいるという。それならば、私の命とこれからの人生をそのまま差し出してあげたい。
17年間育ててくれた両親に報いる為、というのは体裁を保つための言い訳で、本当は残された家族を傷つけないために、事故死を演出することに決めた。
方法はこうだ。片道6キロの高校までの自転車通学中、青の点滅から赤に変わったところを信号無視の女子高生が横断し、トラックにはねられて死亡。身元は、制服の胸ポケットに携行されていた学生証で判明。
通学路のうちの半分は国道沿いを走るから、トラックの往来も多く、事故に見せかけるのは簡単だ。残りの半分は車がほとんど通らない田舎道。これまた、信号無視をする理由になる。
だが、今日も失敗してもうすぐ自宅に着いてしまいそうなことが悲しくなり、こうして土手でもっと良い案を考えているのだ。
そう言えば、2か月ほど前の寒い日、水が干上がっている石ころだらけの川底に一匹の茶色い雑種犬が横たわりもがき苦しんでいるのを見つけた。
橋の上から転落したのか、はたまた悪い人間に突き落とされたのか、左前足を骨折しているようで、必死で残りの足で川底の石ころを犬かきしながら蹴っていた。けれども一向に立ち上がれず「くぅん、くぅん」と苦しそうに鼻を鳴らしていた。
私は、潔癖症の母の影響で、犬や猫といった毛のある動物が嫌いだ。と、いうより、あまり身近に接したことがないので、どうしたら良いのかわからないのだ。
自転車を停め、土手を降りて、目の前の犬に「どうしたの?」と声をかけてみた。犬は私の目を見て同じように鳴いた。私は、一旦土手の上の自転車まで戻って、前かごに載せているレインコートを取って、それで犬を包み持ち上げた。ずっしりと重く、土手の斜面を登る時には、落とさないように強く抱き寄せた。
そうして、自宅とは反対方向の駅前の動物病院へ連れて行き事情を話した。私の飼い犬ではないことを知ると、治療費は請求しないと言われた。仮に請求されても、財布の中には千円札と小銭が少しあるだけだった。
その翌日、動物病院から電話があり、亡くなったことを知らされた。ちょうど私が電話に出られて良かった。死因は、元々栄養不足だったことに加えて、骨折により動けなくなったことによる衰弱だろう聞かされた。状況からして、私が発見するまで長い時間、泥臭い石の上で寒さにさらされていたようだ。
その犬のことは誰にも話さなかった。話すような友達もいないし、家族に言う必要もないと思ったからだ。
その犬が横たわっていた場所には今、灰色の水が流れている。この辺りは田んぼが多いので、田植えの時期になると用水路の水門が開き川からの水を取り入れるため、水流が多くなる。
交通事故死は諦めて川で溺れたことにする?この時期に、こんな泥水の川に流されるのは、いくらなんでも不自然過ぎる。死にたいのに死ねないというのはこんなに辛いものなのかと考えたら自然と涙が流れていた。
「ねぇ、ちょっと。」
後ろで声がしたけれど、私に話しかける人がいるはずもなかった。
「おーい、君だよ。」
そう言われて一応振り向いてみると、そこには長く伸ばした髪を白いタオルで巻いた作業着姿の男が、ひしゃげた前かごの見るからに廃車寸前と思われる自転車にまたがっていた。
こんな田舎にも不審者はいる。私はどうやって逃げようかと考えたけれど、男は気にしない様子で話し始めた。
「これ食べて元気出しなよ。泣いていただろう?大体の悩みなんて、お腹がいっぱいになれば解決するからさ。これ、そこのコンビニで買ったばかりだから毒を盛っていたりしないから大丈夫。黄色い方は新発売のカレー味だって。そうそう、俺、女子高校生に興味ないから、変質者でもなんでもないよ。じゃあね。」
そう言って、小さな白いビニール袋を私に手渡して、去って行った。
私は何も話していないのに、まるで私の心の中を読んでいたかのように、全ての疑問に答えて消えてしまった。
ビニール袋の中には、茶色の包みが二つ入っていて、ほかほかと温かかった。緑色の星のマークは紛れもなく近所のコンビニの証だし、紙袋を留めたテープは剥がされた形跡などない。
そういえば、お腹が空いているような気がする。ほのかなカレーの匂いに負けて、一口かじると、ひき肉とじゃがいもが黄色く染まったコロッケの熱が口の中に広がり体中を温めてくれるような気がした。もう一つの牛肉コロッケも一気に平らげてしまった。
「仕方ない。今日のところは帰るとするか。」そう呟いて家に着くと、制服のままベッドで眠りについた。安らかな気持ちで、ぐっすりと眠ることができた。
その次の日から、計画は中断することにした。コロッケおじさんと勝手に名付けたその男にまた会いたいと思ったら、死んでいる暇などないと思ったからだ。
ある朝、弁当の包みを渡しながら母がこう言った。
「来週、お友達が来ることになったから、庭の剪定を頼んであるの。いつもの植木屋さんは予約でいっぱいと言うから、すぐに来られる人を紹介してもらったのよ。このご近所の方みたい。今日、学校から帰ったら自転車を裏に停めてね。」
いつものように孤独な教室から解放されて帰宅すると、見覚えのある自転車が我が家の玄関前に停めてあった。剪定ばさみで庭の松の木を切っているのは、あのコロッケおじさんだった。
私はこっそりと裏口から家に入って、2階の部屋の窓から庭を眺めていると、このままやりすごすのは間違っているように思えた。やはりコロッケの御礼を言うべきだと気づいた。そうして、一旦はジーンズに着替えたものの、私だとわからないといけないと思って、また脱いだ制服を着直して庭に出た。
「あの、この間はごちそうさまでした。」
私がそう言うと、男は見下ろして、
「元気出たか?この前より、顔色良さそうだね。死にそうな顔していたからね。」
と言って、白い歯を見せて笑った。
「あの、この近所の方ですか?」
そう尋ねると、
「そうだよ。でも、もうすぐいなくなるけどね。オーストラリアに引っ越すから。」
私が驚いていると、
「恋人がさ、向こうにいるわけ。」
と答えた。
「結婚するのですか?」
「どうかな?恋人って男だからね。子どもを作るわけじゃないから、結婚なんて形はどうだっていいかな。」
私は頭の中の整理に必死だった。だから、女子高生に興味がないと言ったのか。
「あの、私、死にたかったのです。でも死ねなかった。」
「あぁ、そうなの。」
「理由、聞かないのですか?」
「聞かないよ。死にたくなることなんて、誰にだってあるよ。でも、皆死なずになんとかやっている。辛かったら逃げれば良いのだからさ。あんまり頭で考え過ぎないで、適当に生きていれば良いことだってあるよ、きっと。」
その言葉は私の為だけに発されたと思ったら嬉しくて胸が熱くなった。
「ありがとうございます。」
頭を下げて、溢れ出る涙を見られぬように急いで家に入ろうとしたら、後ろから声をかけられた。
「冬にさ、犬を助けてくれたでしょう。あれ、たまたま見ていてさ。近所の爺さんが飼っていた犬なのだけど、その爺さんが救急車で運ばれてね。その後どうなったのか知らないけど、多分駄目だったと思う。庭で飼われていたから、首輪が外れて逃げ出したのだろうね。俺の犬じゃないけど、爺さんの代わりに御礼言わせてもらうよ。」
そうか、そうだったのか。
あの名も知らぬ息も絶え絶えだった犬が、私に「生きろ」と、この男を通して伝えてくれたのだ。
コンクリートの割れた隙間から生えるオレンジ色の花を思い出して、私は「生きてみる」ことにした。
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